夏アニメが始まった。春アニメで延期したものもいくつか始まって,本数的にはかなり盛り返したといった感じだ。とはいえ,やっぱり去年までの同時期の本数には遠く及ばない。
放送中のアニメを見る時間が減り,またこの状況下で研究もちょうどいい感じに拘束時間が減ったこともあって,可処分時間が増えた。で,ゲームをやったりYoutubeを見たりして非生産的な時間を謳歌しているわけだけど,そんな時間の浪費法の一つとしてVtuberを今更見始めた。
きっかけはYoutubeのおすすめ動画に現れたとあるVtuberなのだが,偶然であったにしてはあまりにも声と喋り方が好みど真ん中だった。久しぶりに自分の中での声優の定義を確認してしまうくらいには声質から発声からめっちゃクる人。なまじキャラクターの皮を被っているのが認識を狂わせてきていて,声優だったらどうしようと思って中の人が声優ではないことをわざわざ調べてまで確かめてしまった。
もちろん各々の声優の定義に照らして自分が,そして他の声優ファンがVtuberをどう捉えているんだろう,っていうことにも興味はあるのだが,もっと気になったことが一つある。
これを主たる娯楽として(そこそこ大きなエネルギーを割いて)消費してきた人は,何故飽きないんだろう,というところだ。
- Vtuberは「変わらない」を楽しむもの
単発のネタ動画だったり,アプリのレビュー動画だったり,ゲーム実況だったり,雑談配信だったり,Vtuberが提供するコンテンツは結構多岐にわたっているけれども,そのどれもが実写のYoutuberと同じようにキャラクター性を重視しているように見えた。
ここで言っている「Youtuber」っていうのは,やっているコトは正直なんだって良くて,既に完成された一貫性のあるキャラクター(人格?)のトークや反応を楽しむのが主,みたいな性質を持ったコンテンツ,くらいの意味で言っている。同じキャラクターがいつ見に行っても同じ振る舞いをする,というのが大前提で,そこには変化が仮定されていない。
同じヒトが同じ振る舞いをしている様子を消費する,というのがコンテンツとしてのYoutuberだとすれば,時間が経っても歳を取らず,ライフイベントは訪れず,Youtubeを開けば常に同じ見た目で存在するVtuberは,これ以上なくYoutuber的なコンテンツに適した形態だ。Vtuberを消費する,というのは,変わらない(と期待される)ものを楽しみ続けることだ,と僕は考えている。僕はこの意味で,ときどきVtuberを消費させてもらっている。*1
- 重めの趣味として「変わらない」を楽しむのは難しくないか
だからこそ限定つきで,これを「主たる娯楽として」消費している人の心境に興味がある。というのも,Vtuberの配信は実写のYoutuberの配信と違って,びっくりするくらい長いものが多い。2時間とかはざらに超えてくる。2時間ぶっ通しで何かを見続けるというのはかなり労力を使うことだし,消費者に「重めの趣味として」少なくないエネルギーを割いて追いかけることを要求している形態だと僕は感じる。そこで,結構なエネルギーを割いて同じ振る舞いをするVtuberを消費するのって飽きないのかな,という疑問に至ったというわけ。*2
翻って自分が「主たる娯楽として」消費しているものは何か,と考えると,真っ先にアニメが思い浮かぶ。アニメも結構拘束時間を取るもので,週50本放送がザラになった今日では平気で週20時間以上はTV画面に注視することになる。それでも僕が飽きずにずっと続けていられるのは,そこに変化があるからだ。
主人公の人格が成長する,人間関係が進んだり壊れたりする,社会が激動する。世の中には数多のアニメがあるけれど,その一つ一つが良かれ悪かれストーリーを持っている。ストーリーというのは言葉通り展開の連続で出来ていて,直線的な時間の流れに沿って何かが変化していく。その局所的な,あるいは大局的な差分に僕は楽しみを見出すから,一体この作品にはどういうストーリーがあるんだろう,という興味だけで少なくない時間を割いてアニメを消費し続けることができる。*3
これはアニメに限った話じゃなくて,これまた世の中に数多ある小説だとか漫画だとか映画だとかドラマだとか,そういう類のコンテンツが古くから娯楽として親しまれてきたのは,やっぱり「ストーリー」の魅力なんじゃないかと思う。
だからこそ,「主たる娯楽として」変わらないものを楽しみ続けるのって難しくない?と思ってしまう。変わらないものに何時間もかける意味って何なんですか?
- 「変わらない」コンテンツが人気を得ていることは何を意味するのか
そこで、もしかして「ストーリー」って今のコンテンツ消費に必要じゃなくなってきたのか?という疑問に至った
考えてみれば,僕が10年前から慣れ親しんできた4コマ原作「日常モノ」を筆頭として,ここ数年で話題になったニッチな趣味を紹介するだけの作品とか,料理をただただ食べるだけの作品とか,とにかく「ストーリー」が添え物になってきているような流れは感じていた。
最近特に顕著になってきたこの流れの最もたるものは,いわゆる「なろう原作」(ネット小説原作)ってやつだ。僕もアニメという媒体ではあるがそこそこの数「なろう原作」に触れてきて,数百~数千話ある原作を切り抜いて圧縮して数クールにまとめた成果物を消費してきたつもりだけど,ほとんどの作品には最初から最後に至るまで変化が無いように思える。主人公は最初から世界最強で,周りのキャラクターとの関係性はがっちり固定されている。どんな展開があってもかならず主人公の理想的な形に着地する。ってな感じで,最初から最後まで見て何が変わったか?と問われても返答に窮してしまう作品が多い。「脱ストーリー化」されているのだと思う。
こういった作品が市民権を得て,放送されるアニメのうち一定の割合を占めるようになってからそこそこの時間が経ち、少なくない数の消費者にとって「ストーリー」は不要になったんじゃないか,という不安が浮かび上がってきた。
変化するのは実社会で十分,せめて創作の世界では変わらないものを楽しみ続けたい。そういう棲み分けが創作コンテンツ全体に求められて,Vtuberやなろう原作アニメみたいな流行として現れているのであれば,今後その流れが支配的になって,ストーリーをもった作品が過剰に淘汰されることのないように,ただただ祈るしかない。