タト部記憶

チラシの裏

『夏へのトンネル、さよならの出口』感想

全然まとまりがないけどとりあえず書いた。ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

 

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2022.09.14鑑賞。小学館ガガガ文庫の同名中編ライトノベルを原作としたジュブナイルSF作品。
言ってしまえば「田舎の一夏を舞台にしたボーイ・ミーツ・ガールで、ヤングアダルトでSFなジュブナイル」だった。本当にこれだけ。これだけなのだが、ゼロ年代サブカルチャー、特にライトノベル発コンテンツに触れ、自身のオタクとしての原点がその頃の消費体験に少なからず依拠していて、今でもその頃の作品をたまに思い返してはノスタルジーに耽るような僕にとっては十分すぎるほど魅力的に感じられた。

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本作のストーリーの特に印象的だった点は、①80分強という尺の中で必要十分なイベントが置かれていること、②時間が止まったように過去だけを見つめ続ける主人公の異質さ、自分の足で前に進めるようになる変化だけにスポットライトが当たっていること、の2点だった。

原作ではどうやら塔野カオルの後ろの席の親友や、花城あんずに嫌がらせをしてきたクラスの女子*1なんかも含めた群像劇の要素もあったようだが、ほとんどモブ並みの扱いでばっさりカット。それだけでなく、メインヒロインであるはずの花城あんずのバックグラウンドや変化といった描写も含めて可能な限り薄めて捨象されている。その目的は明確で、塔野カオルがどのような人間であり、どのように変化するかという一点を描くことにあったのだと思う。

本作の主人公であり物語の語り手である塔野カオルは、幼い頃に妹を亡くして以来時間が止まってしまったように過去に執着している、本作で唯一異質な人間だ。家庭が崩壊し酒浸りで世間体だけを気にして一切息子のことを顧みないDV親父と同じように、カオル自身も辛い現実を拒絶し、全てをやり過ごすようにただ生きている。

世界を遮断するカオルの生き方はMDプレイヤーにつながったイヤホンが象徴している。帰路に着くなりイヤホンを耳に詰める冒頭のシーンはさも自然に描かれているが、あえて一人でいるかのような冷たさを感じさせる。いつもの通学路、いつもの駅にずぶ濡れの美少女を見つけて初めてイヤホンを外し会話する所謂「ボーイ・ミーツ・ガール」のシーンは、一見すると近寄り難い花城あんずの心を開いたシーンのようだが、カオルの心が開かれるシーンでもある。この夜、泥酔したDV親父によってイヤホンが剥ぎ取られてからはしばらくイヤホンは登場しない(はず)。これを契機にウラシマトンネルを見つけ、花城あんずとの共同戦線が始まって、今まで拒絶していた外の世界と急速に関わりを深めていくことになる。にも関わらず、塔野カオルは結局彼女を残してトンネルに入ることを選んでしまう。カオルの手に「失ったもの」としてイヤホンが返ってくるのは、再び自分だけの世界へと引きこもりつつあるカオル自身を象徴していると解釈できる。この、懇ろな関係になった相手を残して何十年無駄にしても目標を達成する、という選択ができるのが塔野カオルの異常性だ。

花城あんずといい雰囲気になってもなお、デートに来た水族館でも、花火を見ているときも、塔野カオルは常に記憶の中の過去の妹のことを考えている。ウラシマトンネルに挑むことで夢に向かって前に進もうとしている花城あんずと対照的に、あるいは仏壇を隠し再婚相手と新生活を手に入れて前に進もうとしているDV親父とも対照的に、常にカオルの目線の先は亡き妹であり、過去だ。一番近しい花城あんずをして「塔野くんの見ている世界に行きたい」と言わせてしまうほどに、作中人物の目から見ても塔野カオルだけが異質なのだ*2

塔野カオルに変化が現れる最初のシーンは、夏祭りのことを耳にしたシーンだ。誘ってみるのもいいかもしれない、なんて言葉は、イヤホンをして自分の世界に閉じこもっていた頃の彼からは絶対に出てこない。花城あんずに少なからず好意をもっていること、それが彼の異質なスタンスに変化を及ぼしていることが示唆される。

再び一人でウラシマトンネルに入ってしまう前の時点で最も大きな変化が現れていたのが、向日葵のシーンだったのだと思う。このシーンの意図は一見すると読み取りにくい。決行前日の喫茶店で花城あんずの人生が前に進み始めたのを聞き、トンネルに入る意義を見失いかけている彼女自身の決意の揺らぎを読み取って、おそらくカオルの選択自体は決まっていたのだろう。でも共同戦線の義理、心の奥底の好意から別れ難い。だからこそ、おちゃらけたように見せて出会いはじめのやりとりを再現することで、あんずに出会う前の自分へと気持ちをリセットしたシーンだったのではないだろうか。つまり、塔野カオル自身も花城あんずとの日々に一切後ろ髪を引かれなかったわけではなく、人間らしい迷いがあって、折り合いをつけていたと解釈することができる。であれば、それもまた自分だけの世界に閉じこもっていたカオルの変化であったと思う。初めて本当の笑顔を見せ合い、心が通じ合ったかに見えた二人の間に、明確な行く先の違い、直後の決別が示唆されていて、本作で最も印象的なシーンだ。

ここまで異常性を一貫して描いてきたカオルの最大の変化が描かれるのは、言わずもがな終盤のウラシマトンネルのシーンだ。妹の死から止まり続けていた自分の時間を、自分の足で前に進める。この変化を描く過程として、出口が存在しないウラシマトンネルは自分の足で過去に戻った分だけ自分の足で未来に向かって前進する必要があるために、最適なモチーフであったと思う。ただ一つ見据えていた目標を達成するだけの往路に対して、妹との甘美な日々を捨てて重い代償と共に帰ってこなければならない復路はずっとしんどいはずだ。その重大な心変わりを生じさせたターニングポイントが花城あんずの「私は前に進み続けている」という言葉になっていた。妹との理想の過去に浸り自分だけの永劫の時を過ごす"止まった"人生を捨て、花城あんずと"前に進む"人生を選んだということだろう。主人公の狂気をヒロインの愛の力が打ち砕く、という構図だけ抽出すればそれは数多消費してきた定番ストーリーだし、そういう文脈に回収される気持ち良さも含めて納得感のあるクライマックスになっていた。

ラストの「行こう」というセリフにも、再びカオルが過去に囚われてしまうことがないと安心させる力強さが籠っている。ケチをつけるところがない完璧な筋書きだったと思う。

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映像は文句ない出来だった。派手な動きや背景ではなく、淡々と、丁寧に登場人物の表情や動作を芝居させていて、作品のキモとなる時間の経過を天候や風景の変化で語っていた。

親父に殴られて家を飛び出すシーン、三連休明けの早朝に漫画を読ませてもらうシーン、真っ暗な突堤で花火を見るシーンなどなど、暗さを意識して使っていた画面が多かった印象がある。夏を舞台にした映画といえば雲一つない青空、照りつける日差し、みたいな印象があるが、塔野カオルの仄暗い人間性を鑑みればこの作品に限ってはむしろ明るく華美な映像であってはならないとすら感じる。適切な塩梅だった。

特筆すべきは草花を用いた演出だ。先述したひまわりの傘のシーン、一人残されてメールを読む花城あんずの表情が水面に落ちるモミジで隠されるシーンなどなど、季節の草花を非常に効果的に映像表現に活かしている点が目を惹いた。

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主役二人をあえてアニメ声優にしなかった判断は結果として成功していたように思う。激しい情動を声の演技に乗せられていたかと言われるとうーんというシーンもあったが、"プロっぽくなさ"が生々しい人間臭さとか思春期特有の不安定さみたいなものをキャラクターに載せられていて、この作品の内容に照らしても間違いない起用だったのではないか。

いや花城あんずをもっと超美少女ボイスで聞きたかったという気持ちもあるのだが……。ていうか花城あんずは戦場ヶ原ひたぎなので(暴論)、斎藤千和さんの声で聞いてみたかった感じがある。

あまりのノスタルジーで頭がいっぱいになって劇伴には意識が向けられなかった。が、特に思い出の世界からトンネルの出口へと駆け出すラストシーンでうわーっとこみ上げるものがあったのであの辺の劇伴は良かったのだと思う。

*1:最初は彼女が嫉妬する展開かとも思った

*2:男が特殊な女に追い縋る構図は数多あるが、女が特殊な男に追い縋る作品ってあんまりなかったかもしれない?